tokuchan-worldのブログ

外国ってこんなとこ〜

第77話 クーラーがない

ドイツ ミュンヘン中央駅

 

[1997年6月 ドイツ  ミュンヘン]

 

 フランクフルトで乗り換え、ミュンヘンに到着しのたは夜の8時頃。ここで一泊して、翌朝オーストリアとの国境近くにある Prien (プリーン)へ向かう予定。ミュンヘン中央駅近くで予約したホテルを探す。樺太南部とほぼ同緯度の北緯48度にあるもののとても蒸し暑い。

 

 ホテルは一泊するだけなので小さな安いところにした。これが失敗の元だった。場所が分からない。道行く人に尋ねるが誰も知らない。あちこちウロウロするが、分からないまま時間だけが過ぎていく。

 

 偶然通りかかった警官に聞いてようやくたどり着いた時には10時を過ぎていた。歩き回ったせいもあり余計に暑い。部屋に入ってクーラーを探すがない。

 

 フロントで聞くと、ここにはクーラーはありませんよ。こんなに蒸し暑い日は滅多にありませんから。と言う。事務所でも家庭でも、暖房器具は完備しているがクーラーのあるところは少ない。長旅の疲れのせいもあり、暑いながらもすぐに寝てしまった。

 

第76話 ロシアを避けて

ドイツ ミュンヘンの新市庁舎

 

[1997年6月 関西国際空港 => ドイツ  フランクフルト]

 

 19976月、2週間で欧州7ヶ国を訪問予定。最初の訪問地はドイツ。関西国際空港を離陸したルフトハンザ航空はフランクフルトを目指す。そこで乗り換え、この日はミュンヘンまで行く予定関空からの欧州便は、アラスカのアンカレッジを経由しなくなった今、殆どが新潟へ向かいそこから日本海を超えてロシア上空を飛びフィンランドヘルシンキ辺りを通過して各地へ向かうという航路を取る。

 

 しかし、このルフトハンザ機は、ソウル、北京、ウランバートル上空を通過し、ゴビ砂漠カザフスタン上空を飛んで行く。ロシアには入らずに国境をかすめて行くのだ。

 

 飛行距離は長くなり、時間と燃料の消費は多くなるが、ロシア上空の通航料を払うよりはこちらの方が安いからと言うのがその理由らしい。通路側の座席なので下界は全く見えなかった。どこの企業も経費節約の為に努力しているんやなぁ。それともロシアが嫌いなのか?

 

第75話 日本人ですか?

南アフリカ ヨハネスブルグの土産物店

 

[1996年10月 南アフリカ => 香港]

 

 初めてのアフリカ ミッション終了、帰国の途へ。往路と同じく香港経由だ。香港までは13時間、パナマへ行く時のように3人掛けの真ん中などになっては堪らない。早めにチェックインし、通路側を確保した。これで安心して香港まで帰れる。

 

 搭乗便はキャセイパシフィック航空、アジア系の為か搭乗客もアジア人が多い。と思っていたが、もう一つ理由があった。アジア系の乗客は台湾の人たちが多いらしい。というのも、南アフリカの沖合は遠洋マグロ漁業が盛んで、台湾や日本から漁船の乗組員やその家族が多く行き来している為らしい。船は現地にそのまま置いておき、人間だけが速い航空機で移動し交代するのだそうだ。

 

 搭乗時刻まで時間潰しに空港内をぶらつく。トイレに入る。しまった! 出てきたところで、失敗したことに気がついた。日本にはない有料トイレだった。手洗い場や出入り口に人がいて、チップを要求するのだ。香港などにもあり、その存在は知っていたが常に避けてきた()。入口に人がいたのには気づいていたが、掃除の人だと思っていた。人生初の有料トイレ。なんだかすごく損した気分。

 

 搭乗時刻になり、機内に入って自分の座席へ。が、… あんた誰? 30代くらいのアジア系女性が座っている。航空会社のダブルブッキングか!? ここは私の席ですよと言って搭乗券を見せる。相手は、自分の搭乗券を見せようとしない。勝手に座っているのだ。ここでまた問題発生。相手は中国系のようだ。英語も日本語も通じない。スチュワーデスを呼ぶ。当時はまだ客室乗務員やキャビンアテンダントとは言っていなかった。

 

スチュワーデス: 彼女は団体客で、仲の良い友人と隣り合わせで座りたいからここに座ったと言っています。後ろの席をご用意しますのでそこへお掛け下さい。

 

俺: 後ろってどの席ですか?

 

ス: 4人掛けの通路から2番目の席です。

 

俺: NO! 通路側を取る為にわざわざ早めにチェックインしたのです。代わりの席を用意するなら通路側もしくは非常口のところの席にしてください。

 

ス: 探してみますので、とりあえず後ろの席 (4人掛けの内側)で掛けてお待ちください。

 

俺: それは順番がおかしいでしょ! この女を本来の席に座らせ、俺の席が準備できてからこの女をここに座らせるのが順序やないですか。

 

 女は動こうとしない。立ったままでしばらく待った。一旦座ってしまうとご用意できませんでしたとそのままになる可能性がある。立っている限り航空機は絶対に出発しない。しばらくして、元の席から2−3列後ろの通路側を用意され、そこに落ち着いた。

 

 無事(?) 離陸し、水平飛行に入ったところで飲み物が用意され始めた。先ほどのスチュワーデスが隣に止まり、窓側の人から注文を聞いている。胸につけている名札が目に入った。なに!?!? アルファベットで書かれていたが、紛れもなく日本姓だ。座席を占拠していた女性とは中国語、自分とは英語で話していたのでてっきり香港/中国/台湾系かと思っていた。彼女はまだこちらのことは分かっていない。先ほどと同じく英語で お飲み物は何に致しましょう? と聞いて来た。名札を見るところ 日本の方ですか? と日本語で言うと、相手もビックリして、お客様日本の方ですか?

二人で大笑いした。 

 

 先述のような問題が発生した時、日本人はしょうがないなと諦める/譲る? 人が多く 自分のようにここまで主張する者は少ないと聞く。だから日本人には見えなかったのかも知れない。

 

 機は穏やかな天候の中インド洋上空を順調に飛行を続けている。通路を挟んで隣に老夫婦らしき人たちが座っている。我々の会話を聞いて、このスチュワーデスが日本人と分かったからなのか少し訛りのある日本語で話している。それからしばらくするとこの女性が話しかけてきた。中国語で。何を言っているのか分からない。すみませんが、何をおっしゃっているのか分かりません。さっきは日本語で話していましたよね? と言うと、あなたは日本人ですか?と聞いたのよ、と日本語。だったら最初から日本語で言えよ。台湾人の親日家だった。台湾人は何でこんなにややこしいの?

 

第74話 雷が地平線に

南アフリカ ヨハネスブルグ

 

[1996年10月 南アフリカ]

 

 仕事が終わり、夕食に行こうと車で走っていると突然の雨。夕立だ。雷の轟音が響き渡り大粒の雨が車をバチバチと激しく叩き出した。本当に大粒で、小さめの雹 (ひょう)なのかと思うくらいにボンネット上で跳ね、その音も大きくうるさい。そんな中運転しているのはラリー経験もある男、4WDの車で未舗装の道路を100km/h近くでぶっ飛ばす。

 

 雷鳴と稲光が、民家のほとんどない暗闇の中に鳴り響き、光る。あたりは昼間のように明るくなる。とその時、正面で一筋の稲妻が天と地をつないだ。稲妻も見たことがない太さだ。同時に激しい雷鳴が轟く。運転手は笑っている。アクセルに乗せた足はそのままだ。慣れているのだろうが、自分には恐怖しかなかった。

 

 雨粒の大きさとその激しさ、太い稲妻、地平線が見える大地、すべての規模がでかい! 大自然の宝庫、これがアフリカ大陸だ!

 

第73話  お猿の嫁入り

金の鉱山跡に水を溜めた人造池とレジャー施設

 

[1996年10月 南アフリカ]

 

 晴天の下を車で移動中、雨雲は見当たらないのにパラパラと雨が降ってきた。日本では “狐の嫁入り”と言うんだよ。と言うと、相手はビックリしているものの嬉しそうな顔!?

 

 え〜っ そうなの? 南アフリカでは “お猿の嫁入り (Monkey Wedding)”って言うんだ。動物は違えど、なんで嫁入りなんやろ? 雨と嫁入り、何か関係あるのだろうか?

 

第72話 お金をください

南アフリカ ヨハネスブルグ

 

[1996年10月 南アフリカ]

 

 南半球の10月は春。日本の4月頃に相当する。この頃南アフリカではジャカランダという藤色の花があちらこちらで咲き乱れ、人々に春の訪れを告げる。日本の桜のようだ。しかし、その寿命は2-3週間と桜よりは長い。自分が訪れた時は時期的に少し遅く、かなり散っていた。

 

 春とは言え太陽が昇ると日中は暑い。車で移動していると、木陰や家の塀の陰などで休息している人をたくさん見かける。いや、休息ではなさそうだ。仕事がないのだろう。交差点などで大きな紙に“仕事をください”と書いたものを通り過ぎる車に見せている者もいる。中には“お金をください”と書いている者も。いやいや、まず仕事やろ!

 

 こういった人は、失礼ながらほとんどが黒人だ。長年のアパルトヘイト政策によってもたらされた貧富の差。すぐには解消しそうにない。これが犯罪の誘発など治安悪化を招いているのは火を見るよりも明らかだ。

 

第71話 アパルトヘイト (人種隔離政策)

南アフリカ レストランでのショー(?)

 

[1996年10月 南アフリカ]

 

 こんな風に毎晩食事は付き合ってくれる。そしてその後もちょっと飲みに行ったりでホテルに帰るのは毎日11~12時頃。車で送ってもらい、明日迎えに来るまで絶対に一人でホテルから出るんじゃないぞ!と帰って行く。治安が悪いからだ。早めに帰るとまた一人で出て行くのではないかと心配して遅くまで付き合ってくれていたのだ。ホテルの周りは真っ暗で出て行く気もしなかったが。

 

 人口のわずか15%ほどの白人が牛耳っていたアパルトヘイト1994年に終了してからまだ2年、そんなに簡単に状況は変わらない。以前に先輩が訪れた頃はまだアパルトヘイト終了前、白人、黒人、有色人種等の区別があった。彼の宿泊したホテルの入り口には “白人のみ (日本人を除く)”と書いてあり、余計に居心地が悪かったと言っていた。

 

 この時も、昼間であってもレストランやショッピングモールで車を駐車する時は、ハンドルロックやオーディオの前面パネルを外したり常に注意を払っていた。